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花娘物語

花暦編集室 第3話「ひとつの名前の外側」

淡い黄色とくすみ紫のスプレイぎく、古い受注伝票、記録帳、拡大鏡を並べた第3話の標本ビジュアル

前話まで:送別の相談者は、自分の言葉を言いやすくする橙色の花を選びました。閉室後、三十年前の受注伝票では、品種名の文字が折り目の左右に分かれて残っている可能性が見つかりました。

午前六時四十分。花暦編集室の机には、花より先に数字が並んでいた。

ガーベラは古い市場資料を年代順に積み、折り目の左右に残った文字を何通りにも組み直していた。候補に近い名前を見つけるたび、画面の横へ色札を置く。

「候補、三つまで絞れた。お昼の記事に、ひとつくらい出せるかも」

ローズは、透明な保護袋に入れた伝票を見た。赤い「支払済」の印だけが、三十年の時間を拒むように濃い。

「当時を知る人から情報が来るかもしれない」

「見出しは『三十年前の幻の花を探しています』?」

「まだ『幻』と決めるのは早いです」

入口から、低い声がした。

濃紺の上着を着た女性が、白い手袋を外しながら入ってくる。花暦編集室の校閲担当、キクだった。腕には古い資料箱。表紙から細い付箋が何本も突き出している。

「市場の記録に似た名前がある。そこまでは手掛かりです。でも、『伝票にもその名前が書かれていた』と言えば結論になる。今は、その間がまだ空いています」

ガーベラは三枚の色札を裏返した。

「朝一番に、記事を止めに来たんですか?」

「止めに来たのではありません。まだ、書き始める段階ではないと伝えに来ました」

キクは資料箱から、三十年前の編集室が使っていた台帳の複写を出した。取材した店、確認した資料、分からなかったことが日付ごとに並ぶ。分からない欄は無理に埋められず、朱色で「未確認」と記されていた。

「『花』が一冊、『切り花』が一冊、『菊』だけで三冊。分類は、調べ始めるための入口です」

「入口にしては、棚が深すぎない?」とガーベラ。

キクは無言で、もう一冊積んだ。

昼前、一人の女性が祖母の庭の写真を持って来た。命日に、自宅へ飾る花を選びたいという。

「でも、菊の花だけは避けたいんです。いかにも、という感じがして」

キクの指が、資料の端で止まった。

「菊には弔事以外の歴史も、さまざまな花形もあります。市場の区分でも――」

説明は正しい。けれど、ローズは続きを待った。

女性は写真の中の小さな庭を指した。

「祖母は菊を育てていました。嫌いなんじゃありません。葬儀の日に大きな白い花が並んで、それから庭の菊まで、あの日の花に見えるんです」

キクは開いていた資料を閉じた。

「……菊そのものが嫌なのではなくて、葬儀の日と同じ姿を見るのがつらいんですね」

女性はうなずいた。

作業台には、淡い黄色と、くすみ紫のスプレイ菊。それから、菊ではない黄色い小花のソリダゴが一本ずつ並んだ。

キクは花言葉を挙げなかった。輪菊とスプレイ菊では、一茎につく花の見え方が違うことだけを伝えた。

「無理にここから選ばなくても大丈夫です。菊でなくても構いません。写真の庭と見比べて、『似ている』と『違う』を教えてもらえますか」

女性はしばらくソリダゴを手に取っていた。やがてそれを戻し、淡い黄色のスプレイ菊を横からのぞき込む。

「祖母の庭の菊も、一つずつ勝手な方向を向いていました。これは葬儀の日より、庭の方に近いです」

彼女は、その一輪を自分で選んだ。白い器に短く飾り、祖母が使っていた小さな鋏のそばへ置くという。

ローズは包む前に尋ねた。

「この一輪のこと、記録にはどう残したいですか?」

少し考えてから、女性は答えた。

「弔いの菊ではなく、祖母の庭へ戻るための菊」

キクはその言葉を、一字も縮めず花暦へ書いた。

相談者が帰ったあと、三人は古い受注伝票を市場資料と照らした。折り目の左右をつないでも、特定の品種名とは断定できない。流通量を見るための品目区分は、一枚の伝票に書かれた園芸品種を当てる答えではなかった。

「ここは、空欄のままにします」とローズが言った。

朱色の鉛筆で、白いカードへ書く。

――品種名、未確認。候補三件。原伝票と当時の店の記録を照合するまで断定しない。

キクは初めて椅子へ座った。

「それなら、私も責任を持って校閲できます」

資料を戻そうとしたとき、古い台帳の綴じ目から、平たい花の痕が現れた。色はほとんど失われている。店の取扱品目一覧には、似た花の記録がない。

ガーベラが息を止めた。

「注文した花とは、別の花?」

キクは名前を言わず、痕の大きさだけを記した。

ローズも答えを言わなかった。

代わりに、新しい欄を一つ作った。

――誰が、この一輪を選んだのか。

この話の花の事実

農林水産省が一九九一年から二〇〇八年まで毎月実施した花き卸売市場調査では、切り花のきくを輪ぎく、スプレイぎく、小ぎくの三つに分けて集計していました。これは市場流通を把握するための品目区分であり、個々の園芸品種や、個人が花に結びつけた記憶まで示す分類ではありません。

花店で使える一言

「自宅で思い出のために飾ります。大きな白い菊とは違う姿を、菊以外も含めて見比べ、自分で一輪選びたいです」

次回への手掛かり

店の取扱記録にない花の痕を、三十年前の台帳へ挟んだのは誰なのでしょう。

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